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2012年2月16日掲載 |
ニコラス・ネグロポンテの「ビーイング・デジタル(being digital)」が書かれたのは1995年1月である。1995年と言えば、多くの国でADSLの商用サービスが開始される5年前であり、ブロードバンドでインターネットにアクセスしていた人はごくわずかであった。そのような時代に書かれたにもかかわらず、ネグロポンテの記述は驚くほど現在のネット社会を正確に予測している。同氏の先見性は、ジョージ・ギルダーが「ネグロポンテ・スイッチ」と呼んだ、「電話は有線から無線(モバイル)へ、放送は無線から有線(ケーブルテレビ)へ」という予測を引き合いに出せば十分かもしれない。それでも、「ビーイング・デジタル」の先進性を知りたいならば、第14章(日本語版)の「プライム・タイムは自分が決める:一人ひとりがテレビ局」を読むと良いだろう。彼は、YouTubeの登場を知っていたかのように、「これからは、映像アップロードのために、上りの広帯域化が必要だ」と提言しているのである! 彼が予測したデジタル社会の到来により、一部のメディア産業はある時期までスーコチドアースの様相を呈した。その典型がレコード業界であろう。アナログ(LP)からデジタル(CD)へ、そして、目に見えるCDという形のビット(いわば、ビジブル・ビット)からインビジブル・ビット(音楽配信)への移行が、まさに光級の速度で進展し、その延焼は、レコード産業を取り巻く周辺業界にも及んだ。かつて、アナログLPの時代には、レコード・ジャケットのデザインを生業としている人々がいた。先日亡くなった石岡瑛子氏は、マイルス・デイヴィスのグラミー賞アルバム(TUTU)のデザインで有名であった。しかし、今や、ジャケットをアートと考え、音楽と同等の力を入れるムードはすっかり消えてしまった。 ここ10年程の音楽業界では「紙ジャケットによるリイッシュー(再発売)」がブームであった。これは、かつてLP時代に発表され、その後にCD化された作品を、音質を改善した上で、当時のLPジャケットを忠実に再現したミニチュアの紙ジャケットに梱包して販売するのである。日本の元来の丁寧な仕事ぶりはこの分野でもいかんなく発揮され、世界のコレクターからは「紙ジャケ」大国として尊敬されている。しかし、このような「紙ジャケ」ブームもそろそろ飽きられてきたことを、多くの関係者が感じ始めていたところに登場したのが、「スーパー・デラックス・セット」ブームである。それは一体何か?The WHOという英国の老舗ロックバンドが1973年に発表した、「四重人格」という大ベストセラー(当時の米英のレコードチャートでともにNo.2までランクアップ)の現在のCDラインアップを比較した、下記の表で確認すると分かり易い。
→「四重人格」のスーパー・デラックス・セット特集(TOWER RECORSサイトより) 要するに、輸入盤であれば2,000円程度で買える作品に、あの手この手の特典を付けて、12,000円台のズシリと重いコレクターズ向け商品にしているのである。このようなマニア向け高額商品がどれほど売れるのか分からないが、最近は新旧の大物アーチストの作品(新譜でも)にも次々と採用されている手法なので、それなりの需要があり、レコード会社にとって美味しいビジネスなのだと推測される。作品ごとの販売数や収支の詳細データの入手は困難かもしれないが、個人的には、ビジネスモデルとしての意味を今後も探求する必要があると思っている。 このような「スーパー・デラックス・セット」ブームを見て、やや強引ではあるが連想したエピソードがある。自らTwitterを行うことで有名なローマ法王が、「世界コミュニケーションの日」に「沈黙を大切に」と発言し、検索サイトやSNSへの過度の依存は絶え間のない問いのようなものであり、うわべだけの意見交換では人々は安らげないと警鐘を鳴らしたというのだ。 →「法王『沈黙を大切に』検索サイトやSNS依存に警鐘」(朝日新聞デジタル) 筆者も相当なディスプレイ人間であり、1日に10時間はパソコン、スマートフォンに向かっているが、そろそろ、「デジタル疲れ(digital fatigue)」してきたと感じ始めている。それは、単に目や肩の疲れの問題ではなく、まさに、法王が指摘するような「絶え間の無い『断片的』な情報探し」への精神的疲労である。コーヒー片手にアームチェアーに腰かけ、アーチストの語る秘話と未公開写真が掲載されたブックレットを読みながら、リビングに流れる音楽を堪能する。これが至福の時間というものだろう。デジタル疲れし始めた現代人に対して、インビジブルなデジタル・コンテンツを物質化(ビジブル化もしくはアトム化)し、それを書籍などの別の完全物理媒体と組み合わせることで、「くつろぎ、やすらぎ」という付加価値を提供する。すなわち、ローマ法王が語る「沈黙」をデジタル産業なりにビジネス化(要はデジタルと物理媒体の融合)することが、これからの1つの方向性のような気がするのだ。 そのようなビジネスの追求は、デジタル産業にとって2つの意味がある。ネット中立性論争で対峙しているネットワーク業界とメディア、コンテンツ業界は、確かに競争(Competition)する場面も多々ある。しかし、「沈黙のビジネス化」では互いを「補完的生産者」と認識して協力(Cooperation)する。それにより、ネイルバフとブランデンバーガーが1997年の著書「Co-opetition(邦題:コーペティション経営)」で指摘した「競争しながらも協調する」という関係のうち、Cooperationを拡大する可能性が高まるのだ。また、昨今、希少な無線周波数の混雑解消が待ったなしの状況にあるが、無線ブロードバンドは無料ではないが定額という意味では、「セミ・コモンズ」ともいうべき存在である。人々が絶え間なく不要不急の情報にアクセスし続けることを考え直すならば、わずかな効果かもしれないが、長期的には「セミ・コモンズの悲劇」解消の一助になるかもしれない。 (注)本文中の「ビジブル(インビジブル)ビット」、「セミ・コモンズ」という用語は、先駆的に使用している方々がいるかもしれない。その点を完全に確認せず、ここでは筆者固有の意味で使用している点を、予めご了解いただきたい。 |
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